日々のあわ

ウエハラ トモナオ

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夢について


僕は今、デザイナーをしている。

この仕事を志したのは、
大学4年の頃に嘱託職員として
地元市役所の広報係を勤めた頃。

上司から一眼レフ(EOS5だったかな)を持たしてもらい、
構え方から教えてもらった。

地域のイベントに出向き、
ポイントで写真をおさえ、
記事のメモやインタビューをした。

それを持ち帰って、
写真選定、記事おこしをして、
印刷会社への簡易レイアウトを用意して、
上がってきたゲラに対して校正→校了といった感じだった。

エディトリアルデザインに興味を持つようになり、
図書館でいろいろ調べて、少しずつ
この職業に対しての知識を深めていった。

そして、大学を卒業したあとに、
本格的にデザインを学ぶために決心をし、
川崎で現場系の会社をしている叔父のもとで、
1年間働いて学費をためた。

その仕事は、いわゆるガテン系で、
右も左もわからないまま、
初めての現場は横浜の大型造船場での
船のボイラーまわりの修復工事だった。

先輩にひとつひとつ教えてもらいながら、
1,000人以上が出入りする現場で
使えもしない工具をひっさげ、
防護メガネとマスク、防護服に身をつつみ、
汗とほこりにまみれて必死で働いた。

それからは1年かけて、
配管やら、汚水処理場の掃除やら、
製紙工場やら、車工場やら、駅の工事やら、
とにかくたくさんまわった。

その頃まわりにいたのは、
大体が40〜70歳の
若い頃沖縄から出稼ぎにきて
そのまま居着いてしまい、
家族を持たないその日ぐらしの人たちだった。

給料が入るとギャンブルで数日で使い込み、
夜はお酒に飲まれ、また翌日は現場に出る、
お金が入ると現場のケツを割る、
どうしようもないひとたちだった。

けれど、22,3歳の沖縄から出てきた
田舎くさい僕をけっこう可愛がってくれた。
それはとても感謝している分、

正直、とてもその生き方が気の毒で、

絶対おれは稼いで学校で勉強して
デザイナーになって幸せになってやる。
と言い聞かせていた。

それからお金がたまって、
東京のデザイン専門学校に行く事ができ、
(結局お金が続かず1年でやめてしまったが、、)
なんとか沖縄の制作会社へ就職する事ができた。

そして、今はフリーランスとなり、
やっとあの頃思い描いていたスタイルで
仕事ができるようになった。


あのときの、
現場で汗にまみれて視界のせまい
くもった防護メガネからの光景と

絶対に抜け出してやる、
と思い描いていたことを
今でも鮮明に覚えている。

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